「日本的」の罠

美貴様の件が、非国民通信という政治系(?)サイトで触れられていた。

・プライベートの無い世界
(2007年6月4日 非国民通信)


ここでは、スポーツ選手が公私ともに生活の全ての面で期待される役割を担うことが「公」と「私」の区別が無い日本的世界、と述べた上でこう記す。
そしてアイドルも似たようなもの、仕事としてのアイドルか、人生そのものとしてのアイドルか?
今回、藤本氏の交際報道で「イメージを傷つけられた」などと憤っている人は、その人生における全ての面でアイドルであることを求めていたのでしょう。
そしてそれは特別なことではないような気もします。
なぜなら「社会人」という日本特有の概念もまたアイドルと同様、その人生における全ての面で社会人であることを求められる概念であり、その要求はごく普通の人々に対して、至る所で突きつけられ続けているのですから。



概ね、上のサイトの見解に俺も同意する。
とはいえ、単に「日本的だから」という論だけでこの件を片付けるのは、事の本質を見誤る危険があるのではないのだろうか。
これと似たような捉え方をしている部分がある痛井っ亭氏の論についても、同様の落とし穴を一応指摘しておく。

・藤本美貴ドキュメント2007 《ミキ受難曲》(更新の可能性あり)
(アイドルの脱紺築 après le 1er juin 2007)


そこで、俺はこの件に関して別の側面を指摘したい。。
と、その前に、俺はあることを白状しなければならない。